壱拾弐  事実と真実の乖離


 
 実と真実は必ずしも一致するわけではない、これが世の中の掟。
私がインドのシリグリという街にいる時の話である。
その時私にはバングラデシュから帰ってきた直後で、
その町には一泊もせず次の街へ移動するという厳しい行程中だった。
インドには「物乞い」という職業が成立するくらい物乞いという行為が保障されており、
物乞いをする人々も堂々と、また当然のように物乞いをしてくるのである。
物乞いの話はまた今度するとして…その物乞いの子供が話し掛けてきた。
「学校に行く学費がないので援助してほしい」と、訴えるのである。
その子供の身なりは、あまり綺麗な短パンではないが一応身に付けていて
上着も少し茶色ががったシャツを着ていた。
そう、つまり一見では物乞い風情にはみえないのだ。
新手の詐欺か、と私は最大限の疑いを彼の行動に向けた。
子供のためのミルクがない、お腹が減ったから、などインドでは当たり前の手口ではなかったため
恥ずかしい話だが、彼の話には少しの信憑性があった。

 結局私は彼にはお金はやらなかった。
バクシーシが文化だ、そう言われたことも多々あったが私は誰にも施す事はなかった。
彼は寂しそうな顔をして30分私の前で粘ったが、ついに背を向けて去っていった。
彼が去った直後私のもとにはまた新しい物乞いスナイパーが私の財布を狙って来たため、
その彼のことはすぐ頭から離れていたのだが、日本に戻ってきて彼のことを思い出した。

 純な疑問が残る。それは彼が本当に学費が必要だったのか、ということ。
彼は私に学費を要求した、他でもない私にである。
彼にとって私はタダのカモに見えたのか、それとも慈善という名の権力を振りかざす東洋人に見えたのか。
真実はどうあれ彼は私に慈悲を求めた、これは事実である。
彼には学費が必要だったのかもしれない、ただ母親に日本人ならお金をくれると教えられているのかもしれない。
それでも私は彼のその輝かんばかりの瞳の奥に眠る志を見出してあげたかった。
そして彼の存在が、私のインドの物乞いに対する姿勢を変えるきっかけになったのは言うまでもない。
私の目の前に広がる世界、狭いかもしれないがそれが私の世界。

 必ずしも本当のことが全てではない、私にとっては学費という嘘の事実が真実なのだ。
















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